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    森村市左衛門の無欲の生涯


    砂川幸雄 SUNAGAWA Yukio     作家
    1936年 北海道釧路生まれ
    東京教育大学文学部卒業。


    森村市左衛門 MORIMURA Ichizaemon     事業家・森村グループの創始者
    1839年~1919年
    武具商、貿易商、陶器業などに携わり現在のノリタケカンパニーリミテド、TOTO、日本ガイシなどを含む森村グループの創始者。
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    独立というより孤立に近い逆境からの奮起

    「天涯地角頼むべきものは我一人、一方においては老親や弟妹はこれを養育して行かねばならない状態」に立ち至った。しかし彼は「生をこの世にうけたるは祖先の賜物であるから、祖先の祀は断じて絶つまい。……どんなに困っても不正不義の手段は取るまい」と覚悟を決めて困難に立ち向かっていった。

    P 26

    福沢諭吉との出会い

    中津藩の御用商人になったことは、森村市太郎のその後に重大な影響を及ぼした。同藩の下級武士である福沢諭吉と出会えたからである。中津藩主の江戸屋敷に出入りするようになってから、江戸家老の桑名登はしばしば奥座敷にまで招じ入れた。

    P 31

    日米修好通商条約と父・五代目市左衛門

    日米修好通商条約批准のための使節団というのは、佐賀、仙台、長州、土佐、熊本の諸藩士などを含む八十数名の一行で、その正使は幕府の外国奉行の一人新見正興(しんみ まさおき)であった。その新見の親類が森村商店のお得意だった関係で、使節団が派遣されると決まったとき、市太郎の父たる五代目市左衛門に、アメリカ大統領および政府の役人三十人ばかりへのおみやげと、使節団一行の着用する服装の調達などが特命された。

    P 33

    ニューヨーク州ポーキプシー市イーストマン商業学校

    イーストマンの教育法は、生徒に対してすべて実地についてさまざまな訓練を行うというもので、たとえば、生徒がポケットをさぐって鉛筆を探していると、すかさず、「自分の日常使うものの置き場所を忘れるようなことでどうする。必ず入れ場所、置き場所を定めておけ。ナイフでも鉛筆でも、ちゃんと入れどころを定めておいて、使ったら必ずもとへ戻しておくようにすれば、いつ何どき手をポケットに入れても、自分が必要とする品物は必ず定まったその場所にある。そうでなくては、とうてい立派な商人にはなれない」と教えた

    P 64

    1880年(明治13年)「横浜正金銀行」の設立

    このころの貿易取引きは外国銀行の支配下にあったので、外貨を送金するのには非常にフリであった。そこで横浜の商人たちが、外国の銀行に対抗できる金融機関を設立しようと運動を始めた。それが実を結び、福沢諭吉や大蔵卿(大臣)の大隈重信の強力な支援を得て誕生した(明治13年2月)のが、外国為替専門の「横浜正金銀行」(東京三菱銀行の全身)である。

    P 68

    福沢諭吉の言葉:宗教では悔悟し改めれば救われるが

    「天国や極楽ではそういう規則があるかもしれないが、人間社会では一度悪事をすると、あたかもいれずみをしたようなもので、終生拭い去ることはできない。神や仏は許しても人が許さないからしかたがない」と言われた。自分はなるほどと感心し、ますます人格を磨くの必要を感じた。

    P 75

    日本銀行の監事に就任

    日本銀行は、松方正義が大蔵卿(大臣)だった明治15(1882)年10月、資本金1000万円(官民折半)の株式会社として、大蔵少輔(しょうゆう、次官の補佐役)の吉原重俊を総裁にいただいて開業した。そのとき民間から山野村利助(三井銀行)と安田善次郎(安田財閥)が理事に選ばれ、森村市太郎が監事の一人に選ばれたのである。

    P 99

    福沢諭吉の長男と次男の世話をする村井保固

    五ヶ月ほど日本に滞在したあと、村井保固は明治16(1883)年6月12日にアメリカへ船出したが、このとき村井は、森村組の仕事とは別にもう一つ重要な役目を引き受けていた。それは福沢諭吉の長男と次男をアメリカまで引率し、その後、6年間にわたって現地でさまざまに世話をすることである。福沢は、留学中の諸費用ををすべて、森村組ニューヨーク支店経由で息子たちに渡すことに決め、これを森村兄弟と村井に頼んだのである。

    P 100

    日本陶器会社:国内販売の展開

    宮内省への納品は皇太子殿下(大正天皇)が日本陶器会社を訪れたおりに受けた注文が最初で(明治43年11月)以後、天皇・皇后両陛下のご料品、内外重臣の賜宴(しえん)用の洋食器などが明治屋を経由して納品された。
    <中略>
    ホテル、レストラン関係では、帝国ホテル、みかどホテル(神戸)、金谷ホテル(日光)、東京の精養軒、富士見軒、中央亭などがあいついで日本陶器会社の食器を採用するようになった。

    P 124

    富士紡績と「森村橋」:静岡県駿東郡小山町小山

    その森村橋は小さいがデザインがよく(設計は京都大学卒の秋元重松)、その後の維持管理がよかったうえに最近修理されたので、90年以上を経た今日もなお真新しい橋のような姿で鮎沢川に架かっている。土木学会が編集した『鉄の橋百選』(平成6年)にもとりあげられた。

    P 149

    「土筆ヶ岡養生園」福沢諭吉と森村市左衛門が出資した結核療養所

    そしてこんどは自らの手で「北里研究所」を設立し、養生園の隣地に建物を建てた(大正4年)。養生園が積み立ててきた資金が、そのときかなりの額にのぼっていたので、独力で建設できたのである。伝染病研究所が内務省に移管されるときに、福沢は北里に「政府というものは風の向きしだいでいつどう変わるか知れないものだから、足元の明るいうちに後日の用意だけは怠らぬように」と注意したという。

    P 173

    日本女子大学の創設に関わった人々

    実現までにさまざまな紆余曲折があったのちの明治34年(1901)年4月、今日の日本女子大学の前身、日本女子大学校は目白台の地(現東京都文京区目白台)に、家政・国文・英文の各学部と付属の高等女学校を擁して誕生した。5500坪の土地は三井家が、理科教室は三菱の三代目の総帥岩崎久弥が、寄宿舎と大学校舎のあいだにつくられた広い花園は大隈重信が、それぞれ寄付したもので、9月には皇后陛下から2000円の寄付があった。

    P 179

    徹底された直言主義

    森村は直言主義を徹底させるために、社員たちに向ってこう言った。
    「どうぞ森村、大倉の隔てなく自分の考えの浮かぶところはどしどし書状にして大倉なり私なり、あるいはその他の先輩の人々まで言い出し、事業の進め方についても、このように改良すればよいとか、こうしたほうがいいとかを遠慮なく言ってほしい」
    直言を奨励する方法の一つとして、大倉孫兵衛は目安箱を設置した。

    P 201

    森村グループ・我社の精神(1909年発表・1919年改訂)

    一、海外貿易は、四海兄弟、万国平和、共同、幸福、正義、人道のため志願者の事業と決心して創立せし社中なり
    一、私利を願わず一身を犠牲とし、後世、国民の発達するを目的とす
    一、至誠信実を旨とし約束を違えざる事
    一、嘘言、慢心、怒、驕、怠を慎む事
    一、身を汚すなかれ、朋友は肉親より大切なり、和合協力する功果、金銭などの及ぶ所にあらず、永久の霊友なり
    一、神の道を信じ万事を経営する自覚を確信すべし
    上記の条、鉄石心をもって確守し、一身を守り、世の光となるべし

    P 207

    森村市左衛門が自ら垂範した処世十戒

    忍耐、親切、健常、恭敬、寛恕、無我、温良、公正、誠実、勤勉

    抜粋 P 208/209 

    森村市左衛門の格言:懈怠は死なり

    私は平常机の前に一つの格言を貼りつけて、つねにこの心持ちを失わないように自戒しつつ働いている。その格言は古人の遺訓でもなければ西洋の格言でもない。自分が多年の経験上より深く感じていることで、人はなんと言おうが、自分はこの観念でなければ人間万事何事も駄目という具合に考えている。その格言はきわめて簡単で<懈怠は死なり>という一句である。

    P 211

    高野山への寄進

    空海を宗祖とする真言宗には御室派のほかに東寺派、醍醐派などいくつもの派があるが、そのうちもっとも大きい高野山派の金剛峯寺に明王院という御堂がある。明治30(1987)年6月、森村市左衛門は、天保年間に焼失したあと長らく仮住いのままだったその明王院(8間×7間)を、新しく建立して高野山に寄進した。

    P 251
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    Author:bookback
    1981年東京生まれ。静岡育ち。

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