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    銀行王 安田善次郎


    北 安利   KITA Yasutoshi     作家
    1960年 愛知県生まれ
    東京大学法学部卒業、富士銀行に入稿。
    富士証券投資戦略部長、みずほ証券財閥開発部長、業務企画部長等を歴任。
    2008年 みずほ証券を退職、作家活動に入る。
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    安田善次郎の“三つの誓い”

    一、独力独行で世を渡り他人の力をあてにしない。一生懸命に働き、女遊びをしない。遊び、怠け、他人に縋るときは天罰を与えてもらいたい

    二、嘘を言わない。誘惑に負けない

    三、生活費や小づかいなどの支出は収入の十分の八以内に止め、残りは貯蓄する。住宅用には身代の十分の一以上をあてない。いかることがあっても分限をこえず、不相当の金を使うときは天罰を与えてもらいたい

    P 47

    安田善次郎の“接客の四ヵ条”

    一、お客の言うまま、店先にない物は早くさがしてあげる
    二、選ぶ時は最もよい品から取ってあげる。決して悪い品はまぜこまない
    三、包み物はよく堅くしばってあげる
    四、から世辞でなく、心からお礼を言う

    P 51

    著書『松翁清話』:若者に希望すること

    第一に望むのは、定めた目的に向って順序正しく進むことである。すなわち目的に達すべき道程を正しく定め、しかして順序を堅く踏んでいくことが何よりの肝要事である

    P 77

    成功者の共通点:聞き上手・知的好奇心

    成功者の共通点の一つに、“聞き上手”であることと、新知識の吸収に貪欲であることが挙げられるが、安田善次郎もその点では人後に落ちなかった。
    かねて親交のあった武井守正(当時はまだ農商務省山林局長。後の貴族院議員、枢密顧問官、男爵)が明治18年に海外視察から帰ってきたと聞いた彼は、すぐにみやげ話を所望した。

    P 109

    安田善次郎の深い情と悔との拮抗

    (一度言明したことは、いかなる障害があろうとも断じてこれを実行せねばならぬ)
    善次郎は仁義を重んじて利を捨てた。だが、同時に、老婆に安請け合いをした自分を悔やんでいた。経営というものは、老婆の訴えを聞き入れた善次郎の行動を手放しで美談とするほど甘い世界ではない。

    P 141

    安田善次郎:銀行の救済の真の目的とは

    「銀行を救済するのは関係重役や株主を救うためではない。その裏に何千何十万の預金者があり、且つまたそれには多人数の家族があるので、それを救うのである。銀行が破綻したため預金者が気が違ったとか、あるいは悲劇の極自殺したり、またそれがために可愛い子女の縁談が破約になった、とかいう悲惨事をよく耳にしておる。それであるから、自分の利害という事は第二にして救わざるを得ない。これが銀行を救う真の目的である」(『安田保善社とその関係事業史』)

    P 141

    朱子『小学』:汪信民の言葉

    朱子の著した『小学』の中の、
    「人常に菜根を咬み得れば、すなわち百事なすべし」(やわらかくておいしいものばかり食べているのではなく、堅くて筋の多い野菜の根をかみしめるような経験をすることこそ成功の鍵なのだ)
    という、汪信民の遊麺な言葉を座右の銘にしていたという。

    P 144
    <備考・参照>

    高橋是清とロスチャイルド家とクーン・ローブ商会

    この時、ロスチャイルド家に紹介状を書いてもらった高橋は、再びアメリカに取って返した。そしてユダヤ人銀行家でクーン・ローブ商会(後のリーマン・ブラザーズ)を率いるジェイコブ・シフと接触する。
    帝政ロシアの反ユダヤ主義を苦々しく思いロシア崩壊を画策しているシフは、五百万ポンドの追加外債引き受けおよび二億ドルの新規融資を約束。これはまさに干天の慈雨だった。後にシフは日本政府から叙勲され、来日した際には、明治天皇から民間外国人として初めて食事に招待されている。一方、高橋に紹介の労をとってくれたロスチャイルドは、今でも日銀の大株主である。

    P 242
    <備考・参照>

    金の使い方と使い道:営利活動でも社会福祉でも実効性

    特に政府は、無定見な寄付の依頼を民間に対して繰り返すべきではなく、貧しいものに対する恒久的で実効性のある施策を行うことこそが“政治”であり、“防貧の道”なのだと、彼は主張し続けた。
    「政府に防貧に対する具体案がないのなら、われわれが多額の税金を納めても無益だ。そんな無益な税金なら納める必要がない」
    という過激な発言までしている。

    P 249

    安田善次郎と福地桜痴(源一郎)

    福地と言えば、明治初期の言論界において、福沢諭吉と双璧をなした巨人である。
    一時は時代の寵児となっていたが、不幸にして晩年はずっと病床で過ごして困窮したため、かつての知人もまったくよりつかなくなっていった。
    しかし善次郎は彼を見捨てず、生活費の足しにと、手紙と小切手を届けさせたりした。福地は落涙しながら感謝したという。

    P 256

    シンプルな強さ

    「善事は小なりとも必ず行い、悪事は小なりとも必ず禁ずる」という彼の座右の銘同様、彼の行動規範はきわめてシンプルである。ただ、一以て之を貫く強さが、他の人間にはなかなか真似できないところだった。

    P 262

    矢野文雄(筆名・龍渓)

    文語佐伯藩二万石という小藩の出身である矢野は善次郎より十三歳年下。福沢諭吉の慶應義塾入塾後から頭角を現し、わずか4年で慶應義塾の大阪分校長に抜擢され、その後、福沢の推薦で大隈重信のブレーンとなるが、明治十四年の政変で下野。雌伏している間に書いた『経国美談』という政治小説がベストセラーになるなど、全身これ知恵と才能の塊であった。

    P 263
    <備考・参照>

    安田善次郎「身家盛衰循環図系(しんけせいすいじゅんかんずけい)」

    まず“困窮”の中にいる人間は“発憤”するか“挫折”するかに分かれる。“挫折”した者は前には進めないが、“発憤”した者は“勤倹”を旨として生活し、やがて“富足”(ふそく、十分豊になる)の状況となる。
    ここで分かれ道が待っている。“修養”の道を選んだものは“喩義”(ゆぎ、真理の追求)に進み、“清娯”(せいご、教養ある趣味)を楽しみながら“安楽”の境地へと至る。ところが、“富足”の段階で、“傲奢”な生活を選んだものは、“喩利”(ゆり、利益の追求)に走り、“煩悶”し、やがては最初の“困窮”に戻ってきてしまう。

    P 301

    安田善次郎が浅野総一郎に贈った言葉

    その頃、善次郎が浅野に贈った有名な狂歌がある。

    ―― 五十、六十はなたれ小僧 男盛りは八、九十

    P 318
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    1981年東京生まれ。静岡育ち。

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