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    禅 鈴木大拙


    鈴木大拙 SUZUKI Daisetsu     仏教哲学者
    1870年 石川県金沢市生まれ
    1891年 東京に遊学。東京大学選科に学びつつ、鎌倉円覚寺に参禅
    1897年 一元論的実証主義者のP.ケーラスをシカゴに訪ね、アメリカに11年間滞在
    1909年 帰国
    1949年 文化勲章受章
    1966年 逝去
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    自己の体験の本質:事実に素手で触れる

    自己の体験というのは、直接に事実に到ることを言い、それが何であろうと、いかなる媒介をも介さないのである。禅が好んで用いる比喩がある。月を指すには指が必要である。だが、その指を付きと思う者はわざわいなるかな。

    P 50

    禅の四つの声明:四大声明

    教外別伝(経典のほかの特別の伝え)
    不立文字(言葉や文字によらぬこと)
    直指人心(直接に人の心を指し示すこと)
    見性成仏(自己の本性を見て仏と成ること)

    P 52

    知性は時に矛盾や混乱を起こすが、禅はより高い統一で調和する

    禅には人間の存在の本性を直指する独自の道があって、これが成就する時、人は仏たることを成就する。そこでは知性が引き起こした一切の矛盾や混乱は、より高い統一の中で完全に調和すされる。
    このゆえに、禅はけっして説明せず、ただ指し示す。まわりくどい言い方に訴えたり、漠然と概括したりもしない。つねに具体的で、確実な事実を取り扱う。

    P 52

    同じ高さに到達しなければ理解できない言葉

    だから、われわれ自身が禅匠たちと同じ高さに到らぬかぎり、かれらの同じ人生展望をかちえることはできない。ラスキンはいう、「そしてまた、確かなことは、もし著者が相当の人であれば、あなたはすぐにはかれの言うことを理解できないであろうということ、否、長い間、あなたは一向にかれの言うすべてを理解することはできないであろうということである。

    P 64

    真実と悟りの生を生きるには知性の重荷を捨てる

    心は普通さまざまの知性の戯言や感情のがらくたでいっぱいである。これらはもちろん、われわれの日常生活においてそれぞれに役に立つ。それを否定するのではない。しかし、われわれが悲惨な思いをしたり、束縛の感に呻いたりせねばならぬのは、主としてそれらの累積のためである。

    P 64

    禅は現実の只中に飛び込む事

    つまり、知力によらず、分析によらず、また超自然力にも頼らず、直接われわれの実際の生活の中に、それを明治するのである。これはすなわち、生命は、それを現実に生きるかぎり、概念をも、また比喩をも超えるものだからである。生命を理解するには、われわれは、その中に飛び込み、みずから生命に触れなければならなぬ。その一部を拾い上げたり、切り取ったりして検査しようとすれば、生命を殺してしまう。

    P 113

    禅は生きた事実である

    だからそれは、生きた事実が扱われるところにのみ存する。知性への訴えは、それが生命から真直ぐに出てくるかぎりにおいてのみ、真実であり、生きたものとなる。そうでない時には、文字の上の業績や知的分析をどれ程重ねようとも、禅を学ぶ上の助けにはならない。

    P 143

    玄沙師備の言葉

    玄沙は言う、「われらは大海の中で、頭も肩も水に浸っているようなものである。しかもなお、われわれは、さもかなしげに、水を求めて両手を差しのべているのだ」と。

    P 152

    玄沙師備の言葉の解説

    「私の自己とは何でしょうか」と問うた時、かれはただちに答えた。「自己をもって、何をしようというのか」。これを知的に分析するならば、かれの意味するところはこうである。自己について話しはじめる時、われわれは必然的に、すぐさま自己と非自己の二元論を打ち立てて、もって理知主義の誤りに陥る。

    P 152

    言葉と生命と禅

    言葉で行う表示は、思想による説明である。生命を実際に生きるところには、論理は存しない。生命は論理にまさるからである。

    P 157

    天皇道吾の言葉

    「見ようと欲するならば、ただちに見よ。だがそれについて思考しようとすれば、それはまったく失われてしまう」

    P 162

    禅=生命そのもの

    実際、禅は生命そのものであるから、生命の構造をなすものすべてを含んでいる。そなわり、禅は師である、哲学である、道徳である。生命の活動のあるところ、どこにでも禅がある。

    P 166

    禅は既に目の前にある事実

    禅は何も隠すところがない。一切が現前している。まなこ曇った者のみが、それを見ることが出来ないのである。

    P 166

    愛と生命

    実際、われわれは、個人としてのみでははく、国際的にもまた民族的にも、おたがいの破滅のためにいよいよ力をつくそうとしているかのごとくである。
    今日、われわれの考え得る、そして、その実現をねがうさまざまの精神的価値のうち、何よりも切望せられるものは“愛”である。
    生命を創造するのは愛である。愛なくしては、生命はおのれを保持することができない。

    P 195

    愛がわれわれに教えるもの

    われわれ――個別的に言えばわれわれのひとりひとり、集合的に言えばわれわれのすべて――は、善にあれ悪にあれ、この人間社会に行われることの一切に責任がある。だから、われわれは、人類の福祉と智慧の全体的発展を妨げるような条件を、ことごとく改善もしくは除去するように努めなければならないのである。

    P 203
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    Author:bookback
    1981年東京生まれ。静岡育ち。

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