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    行とは何か


    藤田庄市 FUJITA Shouichi     フォト・ジャーナリスト
    1947年 東京生まれ。
    大正大学哲学科卒業。
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    回峰行の起源

    15歳の時、相応は比叡山に登り鎮操という僧侶の門に入り、17歳で出家をした。特記すべきは、師について勉学中の6~7年の間というもの、彼は毎日、山から花を手折っては根本中堂の薬師如来に供えることを欠かさなかったことだ。じつは、この行為が回峰行の始原とされるのである。

    P 25

    大納言・藤原良相(よしみ)から円仁に僧侶の紹介の申し出

    円仁は相応を推す。「汝、縁の相応するところなり」と、藤原良相の「相」の一字をとり、「相応」という法名を与えた。これが相応の名の由来である。時に相応、25歳であった。

    P 25

    相応和尚が刻んだ3つの不動明王の像

    この相応が滝で抱きついた流木は3つに切られ、それぞれが和尚自身によって不動明王の姿に刻まれた。そしれ、一体は無動寺の明王堂に、一体は葛川の地に建てられた明王院に、もう一体は琵琶湖の大河員にある伊崎寺に安置された。3つの寺を結ぶ距離はみな7里半(30キロ)であるという。もっとも、伊崎寺は湖上を行かねばならない。

    P 40

    横川から下った飯室谷(いむろだに)にある不動明王を祀るお堂

    近年は酒井雄哉師のいる寺として、師の千日、二千日の回峰達成で有名になったが、もともと、箱崎文応(ぶんのう、故人)という戦前に千日回峰行を成じた阿闍梨の坊がある他にとして、その世界では知られていた。

    P 87

    「回峰」という言葉

    「回峰」の経典的意味づけも『北嶺行門記』に語られている。『一字金輪儀軌』(『金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切処念誦成仏儀軌』)というお経に、「(悟るには)閑静な名山において、心に随(したが)って廻峰するのが最もすぐれている」とあるのを引用し、廻峰=回峰が卓越した仏道修行であることを主張するのである。

    P 104

    『行門還源記』を著した重華による回峰行の権威づけ

    回峰行はただ比叡山を歩くのみではない。諸堂社をはじめ、湧水や岩をも拝む。それは何故か。重華はこの行為を「蘇悉地羯羅経(そしつじからきょう)」の「(釈迦の)8つの聖地を巡って礼拝行道する」とある文によって権威づけしようとした。すなわち、日本はインドように釈迦の聖跡がない故に、それに代わって堂塔や神社、神々が降臨した聖地を巡って、礼拝行道するのである、というのである。

    P 105

    相応和尚の夢のお告げと巡礼・回峰行

    「わが比叡の山は三部諸尊の峰である。この峰々を巡礼し、日吉大社に詣で、そうして毎日、行脚の苦行をせよ。これは不軽菩薩の行である。経典を読誦(どくじゅ)することを専らにせず、但行礼拝(ひたすら拝む)せよ。それを行ずることが真の行法である。修行が成就したならば、不動明王を本尊として、すべての災いを除くことができるであろう」

    P 106

    比叡山の三部諸尊と曼荼羅の世界

    冒頭にある三部諸尊の峰の三部とは、比叡山の密教が説く、胎蔵部、金剛部、蘇悉地部を差している。比叡山延暦寺は、根本中堂を核にした東塔、釈迦堂を軸にした西塔、横川中堂を中心にした横川の三塔から構成され、 『行門還源記』では「東塔は金剛界、西塔は胎蔵界、横川は蘇悉地峰」にそれぞれあてはめている。

    P 106

    回峰行者と白色の服装:死装束

    それよりも、死を、筒井師らが決定的に意識させられたのは次の三点セットであろう。四手(しで)ひも、死巾、そして短刀。回峰行に入ったならば、一日たりとも休むことは許されない。行を全うできない状況が生じたならば、自らの生命を断て、ということである。ひもで首をくくるか、短刀でのどを突け。死体の顔にかける白い布、死巾も自分で作るのだった。念のいったことに、蓮華笠の中には六文銭を備えた。六文銭はいうまでもなく死後の三途の川の渡し賃である。

    P 112

    回峰行の概要:東塔、西塔、横川の三塔と十六谷

    回峰行はこの三塔をめぐり、さらに麓の日吉大社を拝し、坂本の街を通って無動寺谷に登って返るのである。もちろん、ただ歩くのではない。比叡山と日吉大社の諸堂社のほとんど、つまりは諸尊を礼拝し、さらにいわれのある岩や石、泉などの自然物を礼拝する。加えて、遠隔地の神仏をも遥拝する。礼拝地点は約300カ所、礼拝対象およそ600余。日本宗教が生み出した大変な実践体系だ。

    P 115

    根本中堂にある2つの竹林:「筠篠竹林」「𥵫篠竹林」

    拝観すればすぐに気づくが、根本中堂に足を踏み入れると中庭に2つ、ひとまとまりの竹がある。それが「筠篠竹林」「𥵫篠竹林」だ。中国の天台山より移されたものといわれ、全社には3700余所の大小の神々、公社には麓の山王七社(日吉大社)が勧請されている。竹が依り代となっているわけで、根本中堂のこうした内実も、回峰行者と合ういていなければまったくわからないだろう。

    P 123

    聖徳太子の伝説が残る椿堂

    はかない感じの小さなお堂に出た。椿堂だ。すでに西塔の区域に入っている。聖徳太子がさした杖が根づき、それが椿の森になったという伝説が残っている。

    P 125

    比叡山の三大地獄

    浄土院の掃除地獄、横川の看経地獄、そして回峰地獄。これを比叡の三大地獄というそうである。

    P 132

    比叡山の神宮寺(跡):最澄生誕ゆかりの地

    今は小さな祠があるだけのちょっとした山中の平地である。日吉大社の神域に入ったのだ。大宮川の渓流の音が聞こえる。
    ここは最澄生誕ゆかりの地である。父三津首百枝(みつのおびとももえ)が子授けを祈願するため山に分け入り、草庵を結んで籠もった場所といわれる。その甲斐あって生まれたが最澄である。のち彼自身がこの地に十一面観音を祀り、はじめは新宮禅院と称し、発展して神宮寺となった。

    P 133

    千日回峰行の日程

    千日といっても、ぶっ続けに回峰をするわけではない。基本的には次のように七年間かけて行じるものである。
    1. 第一年目 100日
    2. 第二年目 100日(計200日)
    3. 第三年目 100日(計300日)
    4. 第四年目 200日(計500日)
    5. 第五年目 200日(計700日)
    6. 第六年目 100日(計800日)
    7. 第七年目 200日(計1000日)

    P 144/145/149/150 抜粋

    葉上照澄『回峰行のこころ――わが道心』

    「これほど科学的であって、これほど深い宗教味のあるものも、少ないのではないかと思う」(『道心』)と自らの体験をふまえて故葉上照澄師は著した。師は東大の哲学科を出て、大正大学の教授から比叡山に入り千日回峰を昭和28年(1953)に成就した。

    P 150
    <備考・参照>

    京都大廻りのコース

    赤山禅院――旧白川通り――真如堂――平安神宮――三条粟田口――青蓮院――白川の行者橋――八坂神社――清水寺――六波羅蜜寺――出世稲荷――北野天満宮――上御霊神社――下鴨神社――清浄華院(宿)

    P 150

    千日回峰は厳密には、975日の行:その深遠な理由

    25日間は故意に残す。何故か。一生をかけて、残りの25日間を行じてゆくということである。厳密にいえば1000日ではなくて、975日だ。

    P 151

    藤田庄市『異界を駈ける』

    酒井雄哉師や他の霊山の千日回峰については、拙著『異界を駈ける』(学研)参照。

    P 154
    備考・参照

    侍真の語義

    侍真の語義は、伝教大師すなわり最澄の真影に侍り、大師が生きているごとく仕えることからきた。

    P 175

    火定(かじょう)という捨身

    文字通り、火中に身を焼いて入定するのである。ベトナム戦争の時、ガソリンをかぶって焼け死んだベトナムの僧侶がいた。当時の新聞は、アメリカと南ベトナム政権への抗議の「焼身自殺」と書いた。しかし、あれは“自殺”などではなく、平和を希求した果ての「焼身供養」しなわり火定であろう。

    P 218

    日本における火定の伝統

    日本にも火定の伝統があり、平安中期以降、広く行われたという。その代表的人物が応照法師である。熊野那智山に籠り、穀を絶ち、塩を離れて、松葉を食していたという山林修行者であった。彼は喜見菩薩にあこがれていたのである。

    P 218

    喜見菩薩

    喜見菩薩とは誰か。それは法華経薬王菩薩本事品に登場する仏だ。「天の宝衣をもって自ら身に纏い、諸の香油を灌ぎ、神通力の願を以て、自ら身を燃(とも)し、八十億恒河沙の世界を照らせり」。その身は1200年の間、炎をあげて燃え続けたと法華経は伝える。応照法師はこの喜見菩薩に倣ったのである。

    P 218

    火定した尼僧:慧春尼(えしゅんに)

    火定した尼僧もいた。15世紀前半、室町時代の初期に現在の神奈川県小田原市の曹洞宗大雄山最乗寺に住した慧春尼である。女が修行に耐えられるかといわれ、焼火ばしを美しい顔に縦横に押して出家を認めさせたという尼だ。

    P 218

    不動明王の19の特徴:その1

    つまり、大日如来の化身したものが不動明王なのだ。大日如来は、如来となる以前、人々を救うため仏陀の使いとなってさまざまな働きをするという誓願をたてた。そのため、如来となっても不動明王に変じて活躍する。いつまでもなく大日如来は密教の最高存在である。

    P 226

    不動明王の19の特徴:その2

    大日如来はじめ、過去現在未来にわたる諸仏は、菩提樹の下で坐禅、瞑想に入り、魔を降伏した。そうして至った境地が「不動」なのである。ゆるがない、悟りの境地といえよう。

    P 226

    不動明王の19の特徴:その3

    まず、不動明王は火炎を背負っている。それは火生三昧に住しているからだ。その火は智慧の火であり、一切の煩悩を焼き尽くす。そして人々を悟りへと導くのである。護摩の火は不動明王の火であるから、護摩が究極的には「ご利益」を超越して、悟りを目指していることが、ここからも理解されよう。

    P 226

    不動明王の19の特徴:その4

    本来は如来の使者であっても、実質的には行者や衆生のために使いとして働いてくれるというのである。救ってくれる仏は多くあるが、働いてくれる仏というのはほかにあろうか。

    P 227

    不動明王の19の特徴:その5・頭髪が7個の束になっている理由

    これは七覚支を現わす。七覚支とは悟りへと導く7つの要素、つまり念、択法(ちゃくほう)、精進、喜(き)、軽安(きょうあん)、定(じょう)、捨(しゃ)をさす。意味内容はこうだ。
    「これまでのおのれの言行を注意深く思い起こし(念)、それらを正しい智慧によってよく思量しつつ(択法)、怠ることなく励むならば(精進)、心に喜びが生じ(喜)、喜ぶことによって身体が軽やかになり(軽安)、それより心が安らかになり統一されて(定)、あらゆる感情をはなれた平等な態度が達成される(捨)」(『岩波仏教辞典』)というもの。原始仏典によく説かれているもので、釈迦直伝の教えが、仏教最後の形態である密教の崇拝対象の頭上にいただかれている。

    P 227
    <備考・参照>

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    1981年東京生まれ。静岡育ち。

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